海洋炭素循環フィードバック:気候変動が吸収能力に与える影響
はじめに:地球最大の炭素吸収源としての海洋
地球システムにおいて、海洋は二酸化炭素(CO₂)の最大の吸収源であり、気候変動の緩和に極めて重要な役割を果たしています。大気中に放出された人為起源のCO₂の約4分の1は海洋に吸収されていると推定されています。この海洋によるCO₂吸収は、気候変動の進行を遅らせる「負のフィードバック」として機能する側面があります。しかし、気候変動そのものが海洋のCO₂吸収能力に影響を与え、それがさらに気候変動を加速させる「正のフィードバック」を生み出す可能性も指摘されています。
本記事では、海洋の炭素吸収メカニズムを概観し、気候変動、特に水温上昇と海洋酸性化がこのメカニズムにどのように影響を及ぼすのか、そしてそれがどのようなフィードバックループを形成するのかについて解説します。
海洋における炭素吸収のメカニズム
海洋が大気中のCO₂を吸収・貯蔵する主なメカニズムには、物理的なプロセスと生物的なプロセスがあります。
物理的ポンプ(溶解度ポンプ)
大気中のCO₂は海水中に溶解します。海水のCO₂溶解度は、水温、塩分、圧力に依存します。一般的に、水温が低いほど、塩分が低いほど、圧力(水深)が高いほどCO₂は溶けやすくなります。高緯度地域で冷却され密度の増した海水が深層に沈み込み、そこで溶解したCO₂を深海へと輸送するプロセスは、物理的ポンプと呼ばれます。このプロセスは、海洋表層から深層への炭素輸送において非常に重要です。
生物学的ポンプ
海洋表層では、植物プランクトンが光合成によってCO₂を吸収し、有機物を生成します。この有機物は、動物プランクトンや魚類に食べられたり、死んだりして海底へと沈降していきます。この沈降過程で、有機物に含まれる炭素が海洋深層へと輸送されるメカニズムを生物学的ポンプと呼びます。深層に沈んだ有機物は分解され、炭素は無機炭素として海水中に蓄積されるか、あるいは海底堆積物として隔離されます。
炭酸塩ポンプ
海洋には炭酸カルシウム(CaCO₃)の殻を持つ生物(有孔虫、円石藻など)が生息しています。これらの生物が死ぬと、その殻は海底に沈降し、炭酸カルシウムとして炭素を隔離します。このプロセスを炭酸塩ポンプと呼びます。ただし、炭酸カルシウムが溶解する深さ(炭酸カルシウム補償深度, CCD)以深でなければ、炭素は安定的に隔離されにくいという特徴があります。
これらのポンプ機構は相互に関連し合いながら、大気中のCO₂濃度を調整する上で重要な役割を果たしています。
気候変動が海洋炭素吸収に与える影響とフィードバックループ
気候変動は、主に地球温暖化による海水温の上昇と、CO₂吸収による海洋酸性化を通じて、上述の海洋炭素吸収メカニズムに複雑な影響を与えます。
水温上昇による影響(溶解度ポンプへの影響)
海水温の上昇は、CO₂の海水への溶解度を低下させます。これは、物理的ポンプの効率を低下させる方向に働きます。 * 温暖化 → 海水温上昇 → 海水へのCO₂溶解度低下 → 大気中CO₂が海洋に吸収されにくくなる → 大気中CO₂濃度上昇 → さらなる温暖化
これは典型的な正のフィードバックループです。水温上昇はまた、海水の密度低下を引き起こし、表層と深層の水の混合(鉛直混合)を抑制する可能性があります(成層化の強化)。鉛直混合の抑制は、表層で吸収されたCO₂や栄養塩を深層に輸送する効率を低下させ、物理的ポンプや生物学的ポンプの両方に影響を与えると考えられています。
海洋酸性化による影響(化学システムと生物ポンプへの影響)
海洋がCO₂を吸収すると、海水中で化学反応が進み、水素イオン濃度が増加してpHが低下します。これが海洋酸性化です。酸性化は、海水の炭酸システムにおける化学平衡を変化させ、特に炭酸イオン(CO₃²⁻)の濃度を低下させます。炭酸イオンは、さらなるCO₂を吸収する際に必要となる物質であり、これが減少すると、海水のCO₂緩衝能力が低下し、大気からのCO₂吸収効率が悪化する可能性があります。 * 大気中CO₂増加 → 海洋によるCO₂吸収 → 海洋酸性化(炭酸イオン濃度低下) → 海水のCO₂吸収能力低下 → 大気中CO₂濃度の上昇傾向を維持・加速
これもまた、正のフィードバックとなり得ます。
さらに、海洋酸性化は、炭酸カルシウムの殻を持つ生物に悪影響を与えます。殻を作るのが難しくなったり、既存の殻が溶解しやすくなったりします。これは炭酸塩ポンプの効率を低下させるだけでなく、これらの生物が食物連鎖の基盤となっている生物学的ポンプにも間接的に影響を及ぼす可能性があります。生物ポンプの活動が低下すれば、海洋表層から深層への炭素輸送が減少し、結果として大気中CO₂の増加につながり得ます。
複合的なフィードバックループ
実際には、水温上昇と海洋酸性化は同時に進行し、海流の変化や生態系の応答など、他の要素とも複雑に相互作用しながらフィードバックループを形成します。例えば、
- 温暖化による溶解度低下: 温暖化によりCO₂溶解度が低下し、大気中CO₂が増加。
- 増加したCO₂の吸収による酸性化: 大気中CO₂増加により、海洋がさらにCO₂を吸収し、酸性化が進行。
- 酸性化による緩衝能力低下・生物影響: 酸性化はCO₂吸収の緩衝能力を低下させ、生物ポンプや炭酸塩ポンプに関わる生物に影響を与え、海洋のCO₂吸収能力をさらに低下させる。
- 吸収能力低下による大気中CO₂増加: 海洋のCO₂吸収能力が低下することで、大気中CO₂濃度の上昇が加速。
この一連のプロセスは、気候変動が海洋の炭素吸収機能を弱め、それがさらに気候変動を加速するという、複合的で強力な正のフィードバックとして機能する可能性があります。この仕組みは、地球全体の炭素循環システムにおいて、予測の不確実性を高める要因の一つとなっています。図で示すと、これらの要素が複雑なネットワークを形成している様子がより明確に理解できるでしょう。
研究の現状と課題
海洋炭素循環と気候変動のフィードバックに関する研究は、地球システムモデルを用いたシミュレーションや、全球的な海洋観測網によるデータ収集を通じて進められています。これらの研究により、海洋が将来的にどの程度のCO₂を吸収し続けられるのか、そしてフィードバックループが温暖化のペースにどれほど影響を与えるのかについての理解が深まっています。
しかし、海洋生態系の複雑な応答や、深層循環の長期的な変化など、未だ多くの不確実性が存在します。特に、極域における氷雪融解や成層化の強化、あるいは熱帯・亜熱帯域での生物活動の変化が、全球の炭素循環にどのような影響を与えるかは、継続的な観測と研究が必要です。海洋フィードバックループの正確な評価は、将来の気候変動予測の精度向上に不可欠な課題です。
まとめ
海洋は、これまで大気中のCO₂の相当部分を吸収し、気候変動の進行を遅らせる上で重要な役割を果たしてきました。しかし、地球温暖化や海洋酸性化といった気候変動自体が、海洋のCO₂吸収能力を低下させる可能性のある複数のフィードバックループを活性化させています。水温上昇による溶解度低下、酸性化による緩衝能力や生物ポンプへの影響は、海洋の炭素吸収を弱め、大気中CO₂濃度の上昇を加速させる正のフィードバックとして作用し得ます。
これらのフィードバックループは単独で機能するのではなく、互いに影響し合いながら地球全体の気候システムを複雑に変動させています。海洋炭素循環フィードバック機構のより深い理解は、将来の気候変動の規模と速度を予測し、適切な緩和策や適応策を検討する上で極めて重要です。この分野の研究は継続されており、その成果は今後の気候変動対策に不可欠な情報を提供することになるでしょう。